【研究ノート】
エストニア歌と踊りの祭典によせて
大 中  真
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ストニア民族にとって合唱とは何なのか、また政治と音楽とがどのように分かち難く結び
ついているのかについて、考察してみたい3。続いて第4 章で、多少旅行記のような筆遣
いになってしまうが、この合唱祭が実際にどのようなものであったのかを、筆者の言葉で
報告したいと考える。
写真1.エストニア歌と踊りの祭典2009 年公式ポスター
1. 民族合唱祭の誕生
 宗教改革以降、エストニアではルター派が広く信仰され、現在でもロシア正教徒および
カトリック教徒を上回る信仰人口を数える。ルター派教会の影響により村の学校で合唱音
楽が導入され、17 世紀末には少なくとも5 冊の合唱曲集が出版されたことが記録されて
いる4。ドイツ人貴族により、ドイツ本国のさまざまな音楽習慣が導入され、1830 年代始
めには、多声合唱がエストニアおよびラトヴィアのほぼ全土に広まった。19 世紀には西
欧諸国、とりわけドイツにおいて、市民階級の台頭とともに合唱団の結成や歌謡祭の開催
が広まったが、こうした「歌う文化」がはるか辺境ヨーロッパの地であるバルト地方にも
伝播したと見ることもできよう。当時のエストニアとラトヴィアは、帝政ロシアの統治下
に置かれていたものの、実際にはバルト・ドイツ人が支配階級であった。彼らは中世の東
方植民以来、この地を地主貴族として支配し、文化面でも指導的立場にあったからである。
 こうした各地方や村々での合唱団活動を組織化し、成功させたのは、エストニア民
族の父ともいわれるヨハン・ヴォルデマル・ヤンセン(Johann Voldemar Jannsen,
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1819-90)である5。彼は小学校教師からジャーナリズムの世界に転じ、エストニア語に
よる初めての本格的な週刊新聞を創刊編集し、1857 年から1880 年まで発行し続けた人
物である。ヤンセンの尽力により1869 年、エストニア第二の都市であるタルトゥにおい
て第1 回全エストニア合唱祭が行われた。現在のエストニア共和国の首都はタリンであ
るが、19 世紀にはタルトゥがエストニアの様々な文化活動の中心地となっていた。実際
にタルトゥの住人は今でも、19 世紀にはこの地が事実上エストニアの首都だったと誇ら
しげに語るのを、筆者は何度も聞いたことがある。祭典は3 日間に亘り、51 の合唱団、
845 名の歌い手、15,000 人の聴衆を集めて挙行された。
 合唱祭自体は、リフラント(英語名リヴォニア。エストニア南部の地方、帝政ロシアに
よる行政区画)の農奴解放50 周年を記念して開催されたが6、ちょうど1860 年代はエ
ストニア史におけるいわゆる「民族の覚醒(national awakening)」が急速に広まった時
代であり、数世紀もの間抑圧されてきたエストニア人が民族としての意識を自覚するにあ
たって、この合唱祭は象徴的な出来事となった7。折しもロシアでは、近代化を目指して
大改革を行った皇帝アレクサンドル2 世(AleksandrⅡ, 位1855-81)の治世でもあり、
エストニア知識人階級が登場して文化面での活動が活発化した。例えば第1 回合唱祭で
愛国的演説を行ったヤコプ・フルト(Jakob Hurt, 1839-1907)は、1870 年代以降、詩
人としてまた民族活動家として、エストニアの民間伝承を生涯かけて収集し、ヤンセンと
並んで民族運動初期の中心的人物となった8。
 ヤンセンのもう一つの功績は、後のエストニア国歌の作詞と演奏実現である。もとも
とはドイツ生まれのフィンランド人であるフレデリック・パシウス(Fredrik Pacius,
1809-91)が1843 年に作曲した旋律に、ヤンセンが歌詞をつけたものが『我が祖国、我
が喜びと幸せ(Mu isamaa, mu õnn ja room) 』であり、第1 回合唱祭で歌われた。ゆっ
たりした親しみやすい旋律に祖国愛を歌詞として載せた曲は、たちまちエストニア全土に
広まり、民族運動を代表する歌となった。やがてエストニア共和国が独立すると、1920
年に公式に国歌として採用されることとなる。面白いことに、パシウスのこの曲はフィン
ランドにおいてもフィン語の歌詞で人気を博し、ロシア革命後にフィンランドが独立する
と、同国でも国歌となった。現在でも、両国の国歌は、歌詞こそ違え同じ旋律である。
 これに加えて、ヤンセンと第1 回合唱祭を語る上で外すことのできないのは、リディア・
コイトゥラ(Lydia Koidula, 1843-84)の存在である9。今日に至るまで、エストニア史
上最大にして最高の女性詩人とされるコイトゥラは、ヤンセンの娘でもあり、父の新聞事
業を助け、第1 回合唱祭開催にも尽力した。20 代にしてすでにエストニア中に才能を知
られた彼女は、病気によって早世するまでに300 を超える詩を残したが、最も有名な作
品は愛国的な詩『我が祖国 我が愛(Mu isamaa on minu arm)』である。アレクサンデル・
クニレイト(Aleksander Kunileid, 1845-75)がこの詩に曲をつけ、第1 回合唱祭で演
奏された。やがてコイトゥラの詩は、エストニア民族の魂を象徴し、また支えるものとなっ
てゆく。現在のエストニア共和国100 クローン紙幣は、美しく聡明なコイトゥラの肖像
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画が用いられている10。
 合唱祭はその後、1879、1880、1891、1894、1896、1910 年に開催された。ロシア
ではアレクサンドル2 世の暗殺後、バルト地方におけるロシア化が強行され、エストニ
ア文化に対する抑圧が再び強まった。表1 を見ると分かるが、祭典の開催にも皇帝の在
位や戴冠を祝賀するという大義名分が必要とされた。しかし、そのような中でも、エスト
ニア人は歌うことで民族としての一体感を強く意識するようになり、合唱祭はエストニア
民族統合の装置として機能するようになった。第1 回合唱祭開催には、支配階級であっ
たドイツ人貴族たちとの妥協や彼らからの介入があり、開催許可が2 年間棚上げされ、
エストニア人の手による曲はわずか2 曲しか許されなかった。しかし、回を重ねるごとに、
祭典そのものの主導権をエストニア人が握るようになる。1896 年の祭典では410 の合唱
団と5,681 名の歌い手が参加、1910 年には527 の合唱団と10,100 名もの歌い手が参加
するまでに成長していった。
写真2.舞踊祭の様子(2009 年7 月、撮影筆者)
2. 独立国家の祭典から「占領下」の祭典へ
 エストニアが国家として独立を果たすと、合唱祭は重要な国家行事となった。首都タリ
ンには1919 年に音楽学校(コンセルヴァトワール)が設立され、また1921 年にはエス
トニア声楽家連盟も結成された。こうした準備を経た独立後初の第8 回合唱祭は1923 年
に、国家元老ユハン・クック(Juhan Kukk, 任1922 - 23)の宣言によって開催され11、
これ以降、5 年ごとに祭典を行う慣行が定まった。会場も現在と同じ、タリン郊外のカド
リオルク公園の芝生地が当てられた。来賓の中にはハンガリー王国摂政のホルティ・ミ
クローシュの名が見え、またヨーロッパ各国から多数の報道陣が訪れるなど、独立国家の
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行事に相応しいものとなった。これ以後、1928、1933、1938 年の合計4 回の合唱祭が
実施されたが、合唱祭は回を追うごとに準備段階から組織化され、また規模も大きくなっ
た。戦間期独立時代最後の祭典は、共和国独立20 周年に捧げられ、大統領コンスタン
ティン・パッツ(Konstantin Päts, 任1938-40)の後援によりかつてないほど盛大に開
催された12。参加団体数は569、演奏者は17,501 名を記録し、観衆は10 万人近くに達
したといわれている。しかし、翌1939 年9 月にヨーロッパで大戦が勃発すると、エスト
ニアをはじめとするバルト諸国は、ナチス=ドイツとソ連邦とによる権力政治の只中に巻
き込まれる。大戦勃発直前に結ばれた独ソ不可侵条約秘密議定書により、1940 年6 月か
ら8 月にかけてエストニアはソ連軍によって占領され、以後半世紀に亘って独立と主権
を奪われることとなった。
 現在は合唱祭と同時に行われる舞踊祭の前身は、1926 年にエストニア青少年協会が開
いた第1 回エストニア文化の夕べだとされるが、公式には1934 年の第1 回エストニア競
技会が最初とされている13。つまり、戦間期には合唱祭と舞踊祭はそれぞれ独立して開催
されていたことになる。その後1939 年には第2 回競技会が行われたが、やはり合唱祭同
様、大戦により中断を余儀なくされた。
 第二次世界大戦において、エストニア人は艱難の歴史を歩み、その人的物的損失は膨大
なものとなった。戦争と占領により、全エストニア人口の3 分の1 とも、4 分の1 とも
いわれる人命が失われたといわれている。大戦初期にはソ連邦の占領下におかれ、ソヴィ
エト化の強制と大規模な粛正や虐殺、シベリヤへの追放が実行された(1940-41 年)。や
がて独ソ戦が始まると、ナチス=ドイツによる軍事占領と支配が続いた(1941-44 年)。
そして大戦末期、ドイツ軍が敗走すると再びソ連軍が現れ、1944 年から45 年にかけて、
エストニア全土はソヴィエト再占領下に置かれた。その支配は、以前にも増して過酷かつ
徹底的なものとなった14。
 今や「エストニア・ソヴィエト社会主義共和国(ESSR)」と名乗る政府と機構が設立さ
れ、ソヴィエト連邦を構成する15 の共和国の一つにエストニアは位置づけられた。ソヴィ
エト政府は、戦間期のエストニア共和国を「ブルジョワ独裁」であったと位置づけ、その
存在を全否定し、独立時代を偲ばせるような記憶そのものを抹殺しようとした。独立共和
国時代の国旗、青/黒/白の三色旗は掲揚も所持も厳しく禁止され、ヤンセンが作詞した
国歌は、口ずさんだだけでシベリヤに強制連行されたと伝えられている15。社会の隅々に
至るまで、あらゆるエストニア的なものは消し去られ、代わってプロレタリア的、ロシア
的、共産主義的なものに置き換えられた。
 それでは、民族合唱祭はどうなったのであろうか。興味深いのは、ソ連邦は多民族国家
を標榜し、また「公式に」はロシア民族以外の各民族文化の保護と尊重を喧伝していたこ
とである。加えて、ソヴィエト当局が民族合唱祭を成功させれば、それは共産主義のプロ
パガンダの下で大衆動員に成功したことを意味する。第二次大戦後、スターリン主義の高
まりの中で、芸術政策に対してよく言われた「形式において民族的、内容において社会主
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義的」という原則は、まさにエストニアの民族合唱祭に当てはまったのである16。このため、
1945 年に大戦が終わると直ちにエストニア・ソヴィエト政府は、ロシア革命30 周年に
当たる2 年後の1947 年に、合唱祭を開催することを決定して準備に入った。
 こうして開催された1947 年の合唱祭は、戦前のものとはかなり趣を異にするものと
なった。戦前の独立時代からの伝統と連続性を断ち切るため、実質的には第12 回大会で
はあるが、番号はつけないこととされた。野外会場の大きな屋根には、巨大なスターリン
の肖像画と赤旗が掛けられた。また、かつての「ブルジョワ」合唱祭より参加人数を縮小
してはならないと要求された結果、6,000 名以上の女性歌手や子どもたちまでもが動員さ
れた。祭典の開始にあたってはエストニア・ソヴィエト共和国の国歌とソ連邦国歌が合唱
され、閉幕に際してはモスクワのスターリンへ感謝の手紙が送られ、その末尾には当時の
常套句「我々の賢明なる指導者、教師にして偉大なる友である同志スターリンよ永遠な
れ!」で締めくくられる、といった具合であった。またこの合唱祭からは、原則として舞
踊祭も同時に行われるようになった。
 ソヴィエト当局によるプロパガンダに覆い尽くされた感のある1947 年の祭典ではある
が、触れておくべきことが一つある。それは、エストニア人指揮者であり作曲家であるグ
スタフ・エルネサクス(Gustav Ernesaks, 1908-1993)がコイトゥラの歌詞に曲をつけた、
いわばエルネサクス版『我が祖国 我が愛』が祭典の壇上で歌われたことである。4 分の
3 拍子で始まる曲は、主旋律の高音と低音の差が最大2 オクターヴ近くもあり、合唱形式
を取ることで美しい旋律が効果的に浮かび上がる構造になっている。この曲は演奏後たち
まちにエストニア中に広まり、最も愛され、最も歌われる合唱曲となった。やがて、コイ
トゥラの父ヤンセンが作詞した、今は歌うことを固く禁じられた独立時代の国家に代わっ
て、誰言うともなく「非公式な国歌」と呼ばれるようになる。
写真3.タリン市内から歌の原まで行進する合唱団(2009 年7 月、撮影筆者)
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3. 歌う自由の復活へ
 ソヴィエト体制になって2 度目の合唱祭はわずか3 年後に計画されたが、それはエス
トニア・ソヴィエト共和国の成立10 周年を祝うという政治的目的のためであった。また
1950 年は、スターリンに対する個人崇拝が頂点に達した時期であり、非常な政治的緊張
の中で準備が進んだ。エストニア共産党内でも粛正が大規模に実施され、祭典の組織委員
会の中からも逮捕者が続出し、計画は直前まで何度も変更された。選曲はスターリン主義
路線により近いものに入れ替えられ、ロシア語の曲が追加された。折しもソ連邦では、社
会主義リアリズムのもと、いわゆる「ジダーノフ批判」が吹き荒れ、ドミトリー・ショス
タコーヴィッチをはじめとする多くの音楽家、作家、詩人が「反ソヴィエト的」だとして
激しい攻撃を受けていた。エストニア民族合唱祭も、まともにその影響を受けた形となっ
たのである。今回も会場には巨大なスターリンの肖像画が掲げられ、公式ポスターの中心
にもスターリンが描かれた。祭典はアレクサンドロフ作曲による、独裁者賛美の『スター
リン・カンカータ』で開始され、スターリンを称える合唱曲が何曲も演奏された。共産党
による大衆動員の結果、参加団体数は1,106、演奏者は31,907 名にものぼり、史上最大
規模の祭典となった。
 これほどまでに猛威を振るったスターリン主義も、1953 年に彼が死ぬと徐々に収まり、
1955 年の合唱祭では前回のような政治的緊張状態も緩和された。会場正面に掲げられる
肖像画が、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの4 人の平等な横顔のレリー
フになったことは、それを象徴していた。観衆にはソ連邦を代表する著名なヴァイオリ
ニスト、ダヴィッド・オイストラフもおり、合唱の素晴らしさを賞賛したと伝えられてい
る。さらにフルシチョフが最高権力者となると、緩やかな統制の下で1960 年の合唱祭が
行われた。この大会では、それまでの古典ギリシア建築のような野外会場の建物から、半
円形のドームを被せたような、前衛的で斬新なデザインの建築物が新たに使用されること
となった。現在でも合唱祭は同じ建物を使っているが、古さを感じさせない独特な景観を
保っている。最終日の合唱祭終了後、会場の興奮と熱気から、自然発生的に会場でエルネ
サクス版『我が祖国 我が愛』の合唱が起こり、その場にいたエルネサクス自身の指揮に
よって最後まで歌いきった。この曲は1947 年に歌われた後は、愛国的すぎるために祭典
のプログラムからは外されていたが、これ以降、全ての合唱祭において、祭典終了後に『我
が祖国 我が愛』が暗黙裏に唱和されるようになった。もちろん、ソヴィエト当局にとっ
ては苦々しい「ハプニング」だったに違いないが、数十万人いる会場で演奏を止めること
も弾圧することもできず、この「伝統」は共産主義体制末期まで続いた。こうして『我が
祖国 我が愛』は、エストニア民族にとって特別な曲となったのである。
 ここでエルネサクスについても多少解説が必要であろう17。彼は戦前の独立期にタリン
のコンセルヴァトワールを卒業し、1944-72 年までの約30 年間近くも同校で合唱指揮法
を教えた。ソ連邦による占領と併合時に国外に脱出した芸術家も多かったが、彼は国内に
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留まる道を選んだのである。エルネサクスは1944 年に国立男声合唱団を設立し、以後実
に50 年近くに亘って同団の指揮と監督を務めた。毎回の合唱祭においても、彼は中心的
な役割を担った。彼はソヴィエト時代、複数のレーニン勲章を受賞、また桂冠指揮者の称
号を得るなど、数々の名誉に輝いた。こうした経歴にも拘わらず、彼は生涯を通じて民族
的な合唱曲を300 も作曲したのを始め、20 の単声曲、5 つのオペラを残したことに表れ
るように、常にエストニア人からは愛国者であると見なされていた。エストニア人の国民
性には、ソヴィエト時代に体制にすり寄った人物を嫌悪する傾向があることを思えば、彼
は希有な存在であるといえよう。実はエルネサクスは、エストニア・ソヴィエト社会主義
共和国国歌も作曲している。しかし、その曲想は、これが『我が祖国 我が愛』を作曲し
た人物と同じ作品かと思わせるほど、全く凡庸かつ平凡であり、彼の心がどこにあったの
かを知る格好の比較対称物である。
 その後も合唱祭は、1965、1969、1975、1980、1985 年と、原則として5 年おきに
着実に開催された。そしてソ連邦の最高指導者にゴルバチョフが就任、ペレストロイカが
開始されると、時代は大きく動き始めた。連邦を構成する15 共和国の中で、最も早くか
ら民族の自立を求める運動を始めたのはエストニアであった。こうして1988 年夏の「歌
いながらの革命(The Singing Revolution)」を迎えることとなる18。これは音楽祭ある
いは合唱祭を発火点として集まった民衆が、当時のエストニア共産党指導部への抗議を意
思表明し、結果として保守派の第一書記が6 月に解任に追い込まれた事件を指している。
第一書記解任の翌日、合唱祭の会場には15 万人にのぼる民衆が詰めかけ、それまで厳禁
されていた独立時代の三色旗を打ち振る光景が繰り広げられた。そして9 月には、本来
の民族合唱祭とは別に、共産党に対抗して結成されたエストニア人民戦線が主催するエス
トニア歌謡祭(エストニア語で“Eestimaa Laul”)が開かれ、実に30 万人以上が集まり、
合唱によって民族の団結とソヴィエト支配への抗議を表現した19。この数字は、エストニ
ア共和国全人口の4 人に1 人、ロシア人等を除いたエストニア人に限れば実に3 人に1
人が、一つの会場に集まったことを意味している。これ以後、エストニアは主権宣言、そ
して独立回復宣言を発表し、モスクワとの対決姿勢を強めてゆく。エストニアの体制移行
と独立回復については、既に多くの論考が発表されており、また筆者も最近拙稿を出した
のでそちらに譲りたい20。
 1990 年に開催された第21 回合唱祭は、従って、名称こそエストニア・ソヴィエト共
和国の名の下に実施されたが、モスクワからの検閲や圧力がかかることもなく、選曲も自
由に行われた。愛国的な歌や教会音楽も演奏が可能となり、エストニア人の作品がプログ
ラムの中心に置かれることとなった。また、海外に亡命・移住したエストニア人の合唱団
や舞踊団が、アメリカ、スウェーデン、ドイツ、オーストラリアから参加した。82 歳になっ
ていたエルネサクスも壇上に上がり、自らの指揮で『我が祖国 我が愛』を演奏した21。
観衆の数は、過去最高の30 万人以上だったともいわれている。自由に歌うことのできる
民族合唱祭が、こうして復活したのである。
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 法的に独立回復(1991 年9 月)した後の最初の合唱祭は、1 年前倒しされて、1994
年に開催された。これはタルトゥでの合唱祭誕生125 周年を記念しての変更であったが、
ソヴィエト時代の開催周期は政治的な計算に基づくものであったので(常にエストニア・
ソヴィエト共和国成立からの記念を意識させる効果を持っていた)、本来の姿に戻ったと
もいえよう。そしてこれ以降は5 年周期を守り、現在に至っている。
写真4.誰もいない歌の原の合唱祭会場。右の塔は聖火台。(2008 年8 月、撮影筆者)
写真5.合唱祭最終日のフィナーレを迎えた同じ会場。壇上には2 万人以上の合唱団員、
    人々はエストニア国旗を振り唱和する。(2009 年7 月、撮影筆者)
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4.2009 年歌と踊りの祭典
 筆者が参加した2009 年夏の祭典、正式には第25 回合唱祭と第18 回舞踊祭は、7 月2
日から5 日にかけて行われた。今回の標語は「息を合わせて“To Breathe as One”」と
でも訳せるであろうか。2 日は午後からタリン旧市街の市庁舎広場で楽器演奏があり、祭
典の幕が開いた。すでに市内のあちこちはお祭りの雰囲気に満ちていて、活況を呈してい
た。舞踊祭は3 日午後7 時、4 日午前11 時、5 日午前11 時にそれぞれタリン市内のカ
レフ・スタジアムで行われたが、筆者はこのうち4 日の祭典を見学した。今回のテーマ
は「海」であり、巨大なトラックの中で、マスゲームのように男性、女性、学生、子ども
たちがそれぞれ民族衣装を着けて踊り、演技をするのである。まず「海とエストニアの誕
生」と題して7,460 名の踊り手全員が登場し、音楽に合わせて身体で海の誕生を表現する。
その後、物語風の展開に合わせて、様々なダンスが披露され、2 時間以上に及ぶ。最後に
「全ての船は母港に辿り着く」という設定で再び7,000 名以上の踊り手が全員再登場して、
大団円を迎えた。会場は完全な屋外であるが、当日は天候も良く、鑑賞には最適であった。
 合唱祭は、1 日目が4 日午後7 時から、タリン郊外にある、まさに文字通り「歌の原
(Lauluväljak)」で始まった。タリン中心部から歌の原までは約6km ほど離れているが、
その街道沿いを各合唱団やブラスバンドがプラカードを持ち、その日の日中から延々と行
進して雰囲気を盛り上げる。こうして演奏者も観客も、三々五々歩きながら会場へと向か
うのである。のんびりしているのがエストニアの気風なのか、祭典の開始時間になっても
合唱団が会場に到着し終わっておらず、かなり遅れて開会した。まず、聖火台に点灯式が
行われた後、合唱祭の開会は、舞踊祭と同様、エストニア共和国大統領トーマス・ヘンド
リック・イルヴェス(Toomas Hendrik Ilves, 任2006 -)によってなされた。彼は若者層
を含めて国民の人気が高いらしく、とりわけ大きな声援と拍手が沸いた。今回の合唱祭には、
24,705 名の演奏者が登録されていたそうである。演奏は伝統に基づき、まず混声合唱曲『夜
明け(Koit)』で幕を開けた。次いで全員が起立して国歌『我が祖国、我が喜びと幸せ』が
演奏され、続いてクニレイト版『我が祖国 我が愛』をはじめとする、エストニア民謡が
歌われた。一曲ごとに指揮者は交替し、また数曲ごとに混声、男声、女性、管弦楽団など
と、歌い手や演奏者も壇上に出たり下がったりしつつ、ゆっくりと進行した。意外に感じた
のは、ブルックナーの『アヴェ・マリア』、ワーグナーの『タンホイザー』、オルフの『カル
ミナ・ブラーナ』など、多くのいわゆるクラシカル音楽が、プログラムに載っていたことで
ある。タリンは緯度が高いため、この季節は夜10 時近くまで太陽が水平線上にあるはずだ
が、合唱祭の開演後しばらくして気温が急激に低下し、やがて激しい雨と突風が吹き始め、
筆者を始め観客のほとんどは途中で席を立たざるを得なかった。残念なことであった22。
 翌5 日午後2 時開始の合唱祭2 日目は、素晴らしい天気に恵まれた。1 日目もそうであっ
たが、会場周辺には数多くの出店がでて、食べ物や飲み物、お土産物を売っており、少し
席を立って移動するだけで大混乱の状態であった。この日は管楽器楽団による、比較的軽
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い音楽演奏で始まった。やがて、少しずつ合唱団が壇上に加わって数を増し、エストニア
人には馴染み深い愛唱歌が続き、会場の熱気は高まっていった。舞踊祭でも披露された、
エストニア人に最も愛されている結婚式の歌『トゥリャック(Tuljak)』が始まると、壇
上では24,000 名以上の歌い手が皆肩を組み、身体を大きく揺らしながら大合唱となった。
そして終盤にエルネサクス版『我が祖国 我が愛』が演奏されると、熱気は最高潮に達し
た。皆がエストニア国旗を手に打ち振り、演奏が終わっても、何度も会場ではウェーヴが
繰り返された。この曲を合唱祭で歌う時には、感極まって泣くエストニア人が多いとも聞
く。2 日目の終盤ともなると、ほぼ全ての曲が、合唱団と観客の双方からの要請でアンコー
ルされ、プログラム通りになかなか進まなくなる。公式に合唱祭が終わっても、野外で開
放的な雰囲気の会場では、所属合唱団ごとに、そこここで自然発生的に合唱が始まり、そ
れに観客や他の合唱団が合流してたちまち大きな歌声となって響き、これが延々と続くよ
うである。筆者を始め観客が徒歩で会場を後にしても、歌声は遠くまで風に乗って流れて
きた。
おわりに
 筆者が本論でエストニア合唱祭を取り上げたのは、冒頭でも触れたように、政治と音楽
の接点を感じるからである。例えば政治と絵画との接点では、フランス七月革命とウジェー
ヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』が、あるいはゲルニカ爆撃とパブロ・ピカソ
の絵が、一種の表象としてよく用いられる。エマニュエル・ロイツェの『デラウェア川を
渡るワシントン』が、後になってからアメリカ独立戦争のアイコンとなったことも、知ら
れている。それに対して、これまで国際関係論や国際関係史では、あまり音楽の要素を重
視してこなかったように筆者には思われる。
 ナショナリズムの古典であるコーンの著作によれば、東欧ではブルジョワジーなど中産
階級の発達が遅れた結果、知識人階級がナショナリズムの担い手になったという23。確か
に、第一次世界大戦後に独立ポーランド国家が復活した際、当時すでに世界的に著名なピ
アニストとして名声を確立していたイグナツィ・パデレフスキが共和国首相となり、活躍
した例は有名である。1919 年のパリ講和会議において、ポーランド政府代表として出席
していたパデレフスキの知名度が、祖国の独立確定に際して大いに役立ったことは間違い
ない。焦点を合唱と政治にまで絞り込むと、日本の多くの男声合唱団の愛唱歌にもなって
いる『ウ・ボイ!』が、その作曲者イバン・ザイツと彼の祖国クロアチアの民族独立運動
と密接に結びついている事例を挙げることができる24。
 本論で見てきたように、音楽の要素を抜きにしてエストニア現代史は語れないし、また
政治と音楽をめぐる問題意識はバルト諸国だけに特定されるものでもないだろう。最近、
両者の接点に注目する研究も現れており25、学問的境界線を越えた研究が今後さらに広が
ることを期待している。
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 エストニアはラトヴィア、リトアニアと共に、2004 年にはEU(ヨーロッパ連合)に
正式加盟し、旧ソ連邦の共和国だったというより、ヨーロッパの一小国であると説明され
ることが多くなった。すでに冷戦終結から20 年が経ち、現在の大学生が生まれた時には
ソ連邦が消滅していたことを考えると、日本人のみならず若い世代のバルト諸国に対する
心象は、大きく変わっていくことが予想される。独立回復後のエストニア合唱祭も、回を
重ねるごとに華やかになり、外国から多くの参加者や観光客が訪れる、国際的な祭典とな
りつつある。これまでの民族的伝統を、今後エストニア人はどのように守り、また発展さ
せてゆくのであろうか26。
表1.エストニア合唱祭の歴史
回 数開催年月日場 所特 記
第1 回1869 年6 月18-20 日タルトゥリフラント農奴解放令50 周年記念
第2 回1879 年6 月20-22 日タルトゥ露土戦争等により開催が大幅に遅延
第3 回1880 年6 月11-13 日タリン皇帝アレクサンドル2 世在位25 周年記念
第4 回1891 年6 月15-17 日タルトゥ皇帝アレクサンドル3 世在位10 周年記念
第5 回1894 年6 月18-20 日タルトゥ農奴解放75 周年記念
第6 回1896 年6 月8-10 日タリン皇帝ニコライ2 世戴冠記念
第7 回1910 年6月12-14 日タリン帝政の記念行事とは無関係に開催された初の合唱祭
第8 回1923 年6月30 日-7 月2 日タリン独立共和国として初の開催
第9 回1928 年6 月30 日-7 月2 日タリン
第10 回1933 年6 月23-25 日タリン
第11 回1938 年6 月23-25 日タリン戦間期独立国家として最後の開催
第12 回1947 年6 月28-29 日タリンソヴィエト共和国として最初の開催
第13 回1950 年7 月21-23 日タリンエストニア・ソヴィエト共和国10 周年記念
第14 回1955 年7 月20-22 日タリン
第15 回1960 年7 月20-21日タリン
第16 回1965 年7 月17-18 日タリン
第17 回1969 年6 月28-29 日タリン合唱祭誕生100 周年記念のため変則開催
第18 回1975 年7 月19-20 日タリン
第19 回1980 年7 月5-6 日タリン
第20 回1985 年7 月20-21日タリン
第21 回1990 年6 月30 日-7 月1日タリンモスクワからの干渉や統制がなく自由に開催
第22 回1994 年7 月2-3日タリン独立回復後初の開催。合唱祭誕生125 周年記念
第23 回1999 年7 月3-4 日タリン
第24 回2004 年7 月1-4 日タリン
第25 回2009 年7 月2-5 日タリン
※130 aastat eesti laulupidusid( [Tallinn?]: Talmar & Põhi, 2002)をもとに筆者作成
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1 UNESCO, The Baltic Song and Dance Celebrations <http://www.unesco.org/culture/ich/
index.php?pg=00011&RL=00087>( accessed 22nd September 2010)
2 表題につけたように、「歌と踊りの祭典」と訳すのが一般に日本でも用いられているようである。
美しい民族衣装で華麗なステップを踏む舞踊(フォークダンス)祭は、間違いなく素晴らしいも
のであるが、本論ではより歴史が深い合唱祭に焦点を当てて論ずる。従って以後も、原則として
合唱祭と表記することを断っておく。
3 本論執筆に当たっては、特にいちいち註のない限り、130 aastat eesti laulupidusid ([Tallinn?]:
Talmar & Põhi, 2002) に多くを負っている。130 年に亘るエストニア民族合唱祭の歴史を扱っ
たこの本は、豊富な写真、図版、図表などの資料を含んでおり、エストニア語のみならず英、独、
仏、露、芬の各国語による詳細な解説文を含んでいる。
4 “Song Festivals”, in Miljan, Toivo, Historical Dictionary of Estonia(Lanham, Maryland:
Scarecrow Press, 2004), pp. 441-443. なおHistorical Dictionary of Estonia は以下、HDE と略。
5 “Jannsen, Johann Voldemar”, n HDE, pp. 272-273.
6 エストニアにおける農奴解放は、1816-1819 年にかけて実行された。これは、帝政ロシア全土に
おける有名な1861 年の農奴解放の40 年以上前のことであり、帝政にとっても実験的な改革で
あった。
7 Raun, Toivo U., Estonia and the Estonians, updated 2nd ed. (Stanford, California: Hoover
Institution Press, 2001), pp. 74-76.
8 “Hurt, Jakob”, in HDE, pp. 254-255.
9 “Koidula, Lydia”, in HDE, pp. 285-286.
10 ただし、エストニアでは2011 年1 月1 日からユーロ通貨の導入が計画されており、もし予定通
り順調に進めば、本論刊行時には紙幣は変更されているであろう。
11 「国家元老」とは聞きなれない日本語であるが、エストニア語でRiigivanem、英語でElder of
State と直訳される、独立したエストニア共和国の国家元首を指す言葉である。1921-34 年にか
けてこの称号が用いられた。実質的権限は弱く、儀礼的存在であった。
12 パッツはエストニア独立指導者の中心人物であるが、1934 年にクーデタをおこして全権を掌握、
以後権威主義体制を確立した。その結果、1938 年に新たに導入された大統領に就任した。
13 “The History of the Dance Celebrations”, in Song and Dance Celebration Booklet (Estonian
Song and Dance Celebration Foundation, July 2009), pp. 56-61.
14 この時期のエストニアにおける歴史認識については、前号に執筆した拙稿を参照。大中真「歴史
をどう伝えるか――ラトヴィアとエストニアの占領博物館を例に」桜美林大学桜美林論考『人文
研究』創刊号(2010 年)105-116 頁。
15 “National Symbols”, in HDE, pp. 341-342. ところがこの話には、後日談がある。バルト海を挟
んでタリンの対岸にはフィンランドの首都ヘルシンキがあり、タリン住民を含めエストニア北部
の人々は、冷戦中でもフィンランドのテレビ放送を容易に視聴できたという。ソ連邦は、西側か
らの情報侵入を阻止するために電波妨害を行っていたが、フィンランドは「友好国」であったこ
とも理由であろう、エストニア北部には妨害を徹底できなかったようである。従ってフィンラン
ド放送を視聴できた人々は、毎朝毎晩、放送開始時と終了時に流れるフィンランド国歌を、すな
わち独立時代のエストニア国歌を聴くことができ、その旋律を忘れることはなかった。HDE に
も書かれているが、筆者はこの象徴的なエピソードを、1990 年代に、タリン在住のあるエスト
ニア人から直接聞いている。
16 Raun, op. cit., pp. 187-188.
17 “Ernesaks, Gustav”, in HDE, p. 198.
18 “Singing Revokution”, in HDE, p. 439: “Second National Awakening”, in HDE, pp. 433-436.
19 Laur, Mati, et. al., History of Estonia, 2nd ed.( Tallinn: Avita, 2002), pp. 309-310.
20 大中真「冷戦終結後のバルト諸国―民主主義体制への『復帰』」永松雄彦、萬田悦生編『変容す
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る冷戦後の世界―ヨーロッパのリベラル・デモクラシー』(春風社、2010 年)所収。
21 実は1980 年の合唱祭で、エルネサクスの『我が祖国 我が愛』は、公式にプログラムのフィナー
レを飾る曲として認められた。ペレストロイカの始まる前に、すでにこの曲は「非公式」から「事
実上の」エストニア国歌になっていた、といえよう。Raun, op. cit., p. 218.
22 筆者が宿泊ホテルに戻っても、テレビでは合唱祭の特別中継は続いていた。暴風雨で何度も中断
と再開を繰り返しながら、ほとんど観客のいない舞台の上で深夜まで、全てのプログラムを終え
たようである。
23 Kohn, H., Nationalism: Its Meaning and History( Princeton,N. J.: D Van Nostrand, 1955).
24 『朝日新聞』2010 年9 月4 日朝刊。
25 例えば、日本を事例として、グローバルゼーションと西洋音楽の連関について論考したものとし
て、次がある。半澤朝彦「帝国主義、グローバル化と音楽―日本における西洋音楽の演奏」明治
学院大学国際学部『国際学研究』第36 号(2009 年)43-52 頁。
26 本論の執筆中、日本エストニア友好協会東京支部監事である山本英二氏(1929-2010)が亡くな
られた。山本氏は定年退職後、独立回復後のエストニアに1996 年に渡り、タリンで日本語教師
としてご夫婦で2 年半活躍され、帰国後も文字通り私財を投げ打ち、エストニアから日本への留
学生の「親役」となった人物である。筆者が2009 年夏に歌と踊りの祭典に参加した際も、現地
で大変にお世話になった。草の根国際交流を体現した山本氏の貴重な経験は、自費出版された書、
山本英二『エストニアで日本語を教える』(朝日カルチャーセンター「耀」同人会、2009 年)に
詳しく収められている。山本氏のご冥福を心からお祈りしたい。
【参考文献】
(研究書)
Laur, Mati, Tõnis Lukas, Ain Mäesalu, Ago Pajur, and Tõnu Tannberg, History of Estonia, 2nd
ed.( Tallinn: Avita, 2002).
Miljan, Toivo, Historical Dictionary of Estonia( Lanham, Maryland: Scarecrow Press, 2004).
Raun, Toivo U., Estonia and the Estonians, updated 2nd ed. (Stanford, California: Hoover
Institution Press, 2001).
130 aastat eesti laulupidusid( [Tallinn?]: Talmar & Põhi, 2002)
小森宏美、橋本伸也『バルト諸国の歴史と現在』(東洋書店、2002 年)
鈴木 徹『バルト三国史』(東海大学出版会、2000 年)
(公式小冊子)
Song and Dance Celebration Booklet (Estonian Song and Dance Celebration Foundation, July
2009).
Laulu-ja tantsupeo teataja( Eesti laulu-ja tantsupeo SA, Juuli 2009)
(楽譜)
Eestlase lauluvara( Tallinn: Warner/Chappell Music Finland Oy, 2001)
(CD)
125 Years of Estonian Song Festivals( FORTE: FD 0009/2)
ESTO-96( FORTE: FD 0043/2)
(映像)
NHK テレビ『地球に乾杯 2 万3000 人の大合唱 エストニア』(1999 年8 月26 日放映)
J. F. Oberlin University
NII-Electronic Library Service

 国歌 Mu isamaa, mu õnn ja rõõm https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E6%95%85%E5%9B%BD%E3%80%81%E6%88%91%E3%81%8C%E8%AA%87%E3%82%8A%E3%81%A8%E5%96%9C%E3%81%B3

 

 第二の国歌と呼ばれる 

  Mu isamaa on Minu Arm

  https://www.youtube.com/watch?v=OneQRawdLv4

こちらは楽譜を添付してくれました。

 

いくつか必ず歌われるのがあります。Youtubeで見ることができます。

  Koit   トラディショナル曲

   https://www.youtube.com/watch?v=FEJL8Qaf-9M

 Koit   新しい曲です。

   https://www.youtube.com/watch?v=BTS4JvKXvMI

 Ta lendab mesipuu poole 

         https://www.youtube.com/watch?v=1IKqnO18ZVc